昭和の初め頃の生まれにしては少々ハイカラな「咲子」という名前を持った老女。
だが昔は当然のことながら、少女でありうら若き乙女であった。
横浜生まれの横浜育ち。少女の頃には横浜大空襲も体験し、戦後の混乱期も家族と共になんとか生きぬく。
明るく気のいい、家の手伝いもよくする彼女が大好きだったのが、歌うこと。
家は貧乏だったが、両親も咲子を大事にしていたし、戦後の開明的な気分も手伝って、こんなに歌が好きな子なら、ちゃんと歌を音楽を学ばせた方がいいんじゃないか、なんて考えてくれるような素敵な親たちだった。
高嶺の花だったレコードプレイヤー(いや当時は蓄音機だな)までは手が届かなかったが、でも精一杯奮発して、咲子には専用のラジオを一台与えた。
歌謡曲、ジャズ、オペラ、咲子は何でも好きだったが、横浜では電波状態もよく色々な音楽も聴ける、米軍向けの放送に聞き入ることが多かった。そして耳で覚えた意味もよくわからないままの(学校では英語もすでに習っていたが咲子は苦手だったのだ)英語の歌も、よく口ずさんでいた。
高校までは苦しい家計をやりくりして通わせてもらったが「音楽の学校に進学したらどうだ?」という、涙が出るほどありがたい父親の勧めは断った。
家が大変なのも分かっていたし、専門的に音楽を学んだわけでもなく一般教科の成績もさほどパッとしない自分が、音楽大学や専門学校の試験を通れるとも思えなかったのだ。
でも音楽は大好きだ。できれば仕事にしたい。だが、なんの伝手もない。当時はインターネットはおろか、音楽雑誌でさえロクに手に入らない時代だ。
考えた咲子はまず普通に就職することにした。桜木町の貿易会社に事務員として勤めることにしたのだ。幸いに求人は多かったし、働きながら英語も学べるのではないかという目論見もあった。そしてお金がないことには、ジャズ喫茶にもダンスホールにも行けない。
音楽がふんだんにある場所に行くのが、まず大事なことに思えたのだ。
幸いなことに面接を受けた貿易会社の社長は鷹揚な人で「なに、高卒程度の英語レベルなんてたかが知れてる。会社に入ってから仕事で揉まれながら覚えるので大丈夫だから。それに君はそろばん得意なんだろ?大丈夫、やれることはたくさんあるから」と言ってくれ、採用を決めてくれた。「大事なのは人柄なんだから」と言ってもらえたのは嬉しかった。
咲子は昼は働いて、夜はジャズクラブなどで歌うということはできないだろうか、と考えたのだ。
春になり働き出した咲子は、最初の給料をもらった翌日、親には「ちょっと残業で遅くなるから」と言って、会社を退けたあとに関内のジャズ喫茶に行ってみることにした。何せ女一人である。お店は入れてくれるのかしら?と案ずるまもなく、店に入れた。薄暗い店の空いている席に座るとウエイターがやってきて「女性一人の入店は困ります」と言われたらどうしようとびくびくしていたが、そんなこともなく、名前だけしか知らずにまだ飲んだことのなかった「コーヒー」というやつを頼んでみた。
お客の入りは半分くらい。まだ時間が早いせいだろうか。ステージには写真でしか見たことがないドラムだのベースだのが置いてある。ピアノは学校の音楽の授業でもなじみがあったけれど、それ以外の楽器はすべて生で見るのは初めてだ。
5分後に運ばれてきた「コーヒー」は苦いだけで、こんなもののどこが美味しいのかしら?と思ったところで、ステージ裏の楽屋の扉が開き管楽器だのギターだのを抱えた人たちが出てくる。そして最後に派手な化粧をした女性の歌い手が出てくる。
肩から胸元ギリギリまであいた派手なキラキラのドレス。あんなドレス、私には似合うのだろうか?と疑問が胸をよぎる。
バンドの演奏が始まった。なんて大きな音なのかしら。でも不快ではない。むしろ音楽の楽しさがより増幅されるようだ。咲子の血は騒いだ。楽しい。気づくと音楽のビートに合わせ体を揺らしていた。
ヴォーカルの女性はマイクを使って歌っている。マイクというものは、学校の朝礼で校長先生が話をする時に使うのを見たことがあるだけだったので、歌う時にも使うとは思いもしなかったのだ。
女性の歌い手は、それなりには上手かったが、咲子には少し不満だった。ちょっと英語の発音が悪いんじゃないかしら。まぁ私も英語の成績は全然だったけど、発音だけは褒められたのよ。それに上手だけど、楽器の演奏ほどには胸の中に入ってこない気がする。
なんてちょっと生意気なことを考えながら聴いているうちに、あっという間にステージが終わった。
「コーヒーのお替りか食べ物のご注文はいかがですか?」とやってきたウエイターに「演奏は一回だけで終わりなんですか?」と聞いたら「20分ほど休憩があって、また出てきますよ。今日は後3回は出てくるはずです。
ただ、この次も聴いていかれるんでしたら、何かご注文を」と言われて、お腹もへっていたので、サンドイッチ(これは食べたことがある)と、苦いコーヒーはやめて温かいミルクを注文した。
しばらく待って、そのサンドイッチをパクつこうとした矢先。先ほどのバンドのドラムを叩いていた男が、楽屋から一人だけ出てきて、ジャズ喫茶のマネージャーらしき男と話をし始めた。何やら二人とも難しい顔をして話している。
マネージャーが、さっき歌い手が使っていたマイクを使って話し始めた。
「ご来場のお客様、申し訳ありませんが、歌い手のマリー山口が体調の不良で、今日はこれ以上歌えなくなってしまいました。ここからは歌なし、楽器のみの演奏で残りのステージをお送りします。お詫びに今いらっしゃるお客様には、お店から一杯飲みものをサービスいたします。ウエイターが注文を取りに参りますのでお好きなものをご注文下さい」
マリー山口目当ての客が多かったようで「なんだよ、じゃあ今日は帰るわ」と腰を上げる客も何人か出始めた。
気の早い客が早くも出口の扉を開けようかという時に、声を上げたのが咲子だった。
「ちょっと待ってください。わたし、歌えます!」
マネージャーはびっくりしたような顔で「えっ?」と聞き返すが、そこは店を切り盛りする男、伊達ではない。
「お客様、失礼ですが見たところ歌い手さんには見えないようですが。うちは、飛び入りはお断りしているので、そこはご容赦ください」
追い打ちをかけるように「そうだ、オレは素人女の歌なんか聴きたくないぞ」と冷たく叫ぶ客もいる。
だが、ステージの隅にいたドラマーの男は違った。マネージャーと二言三言話をしたのち、咲子の方を振り返る。そして大きな声で咲子に声をかける。
「御嬢さん、元気がいいねえ。物は試しだ。一曲歌ってみるかい?」
咲子の顔はパッと輝いた。
咲子は出会いがしらのチャンスをモノにした。マネージャーの心配顔をよそに、見事に歌って見せたのだ。「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」「オーバー・ザ・レインボウ」「サマータイム」歌うよろこびを体中からあふれさせて。
ビートは弾け、その歌は情感に富み、ウイットもあり。とても人前で初めて歌う女の子には思えなかった。そして文句を言って帰りかけていた客たちをも、全員釘づけにしてしまい、最後は狭い店内を熱狂の渦にしてみせたのだ。
そして翌日からは早速「マリー山口&マウンテン・フォー」のメンバーに迎え入れられた。今日からは、「咲子&マウンテン・フォー」昔は何事も話が早かったのだ。
昨日までのヴォーカルのマリー山口はドラマーと付き合っていたのだが、一回目のステージが終わったところで男とつまらないことから口論に。まぁ男女にはよくある痴話喧嘩だったのが、収まりがつかずに男がビンタ。それに腹を立てたマリー山口が「こんなバンドやめてやる」と楽屋を出て行ってしまったのが、咲子にとっては幸運の扉を開いてくれたことになる。
バンドに加わった最初の2週間は、会社に行きながら歌っていたが、いくら若いとは言えとても体が持たず、そしていきなり夢がかなったことにも舞い上がり、親に無断でさっさと会社を辞めてしまう。何しろたった二週間のギャラでも初任給の数倍だ。
会社を辞めてしまったこと、そして親から見れば怪しいことこの上ないジャズバンドの歌い手をやっていくなど、とんでもない話。当然のように怒る親二人。
今まで両親に逆らったことなどない咲子が、頑固に意地を張り通し、ついには「出てけ」「出ていくわよ」という、ある意味お定まりのパターン。
当時のジャズバンドは、米軍の基地巡りやジャズ喫茶、ジャズクラブやキャバレーの出演で稼いでいた。「咲子&マウンテン・フォー」も、基地やキャバレーはもとより時々はラジオにも出演したりして、一般のサラリーマンなどをはるかに上回る収入を得ていたのだ。18歳のぽっと出の女の子は、最初のチャンスをものにして飛び立ったのだ。
咲子はそうやってあちらこちらで歌ううちに、米軍の将校に見初められる。その頃には英語も堪能になっていた彼女は、(ついでにコーヒーの味も分かるようになっていた)自由と力を体現しているようなアメリカの軍人が、この上なく頼りがいがいあるように思えた。
アメリカに帰ることになっても歌をやっていい、むしろ本場のジャズ界でしっかりやるべきだ、と力強く語る男が頼もしく見えた。咲子には願ってもない話だった。
しかし、22歳にして結婚しアメリカに渡った後は、波乱続きだった。
夫は最初の内こそ、ジャズクラブで歌う彼女を応援してくれているようだったし、実際自分の知り合いの伝手で、いくつかのクラブを紹介してくれたりもした。
だが、しばらくすると、夫は段々いい顔をしなくなってきた。
「僕たちもそろそろベイビィが欲しいね」などと言っているうちはまだよかったが、歌う仕事にかまけて家事が行き届かないことなどを、やがて口うるさくなじるようになった。
ついには、暴力を振るうようになり耐え切れずに離婚。
そして折悪しくもその頃、アメリカにおけるジャズ自体の人気が急速に低下して、咲子のようなジャズクラブ中心でビッグとは言えない歌手が食べていくことは、非常に難しくなった。
離婚後に知り合った現代音楽系のピアノ奏者と、即興を中心としたパフォーマンスをすることになった。咲子も音楽を愛する気持ちは変わらなかったが、いわゆるジャズスタンダードを歌うことにも、少々飽きと疲れが出てきたのだ。
新しく始めた、少し毛色の変わった音楽は楽しかった。天真爛漫にただ歌うことが楽しかった、少女時代が戻ってきたような気がした。創造的という意味では、ものすごくよかった。
しかし、食べていくということに関してはこちらでも厳しく、2枚ほど専門レーベルから出したアルバム(まだLPの頃だ)も評論家受けは良かったが、全くと言っていいほど売れなかった。
その頃は咲子も別に仕事をしながら、といっても音楽一筋で来て、他の仕事の知識も技術もないから、スーパーでレジを打ったり家政婦をしたり清掃作業をしたりで食いつなぎながらも、なんとか音楽を続けていた。
だが音楽的パートナーだった前衛作曲家とも一緒に活動をすることをやめ、コンサートなどで人前に出る機会もほぼなくなり。
50歳を前にして音信不通になっていた両親のことも気になり、そして音楽をやっていくということも尻すぼみになり、色々なことに疲れ果て、ついに日本に帰ることにする。
元の実家には両親はおらず、ようやく連絡がついた叔母から、父はすでに亡くなって、母は今、一人で和田町で暮らしていることを聞き、散々なじられながらもようやく今の連絡先を教えてもらった。
時代はバブル経済真っ盛り。
だが老いた母親は一人小さなすすけたアパートで、年金で暮らしている。
30年ぶりに会った母はとても小さく、しわだらけになっていた。
「お母さん」と声をかけただけで、咲子は言葉が続かず、玄関先でぼろぼろ涙を流し続けた。
母はただ「おかえり」と小さな声で言ってくれた。「そんなところで泣いていないで、おあがりよ」
小さなちゃぶ台をはさんで、無言で向かい合う二人。母は長い沈黙の後で「随分と待たせたわね」とつぶやいた。
母と自分を支えるために咲子は死に物狂いで働いた。日本でのキャリアもなく、歌一つで来たので、仕事のスキルがあるわけでもない。年齢だって中年だ。もう音楽どころでなく、しかし必死に働いた。職場での人間関係も決して良いとは言えなかったが、母のためと思いがんばった。
そんなある日、普段から嫌味しか口にしない、やせぎすのイタチのような顔をした上司に、いつもよりタチの悪い嫌味を言われた。
疲れていた上に虫の居所も悪かった咲子は言い返し、案の定口論になり、しまいには「このクソババア、くびだ!」「ああ、やめてやるとも、こんなケチ臭いところ」
ああ、やっちゃった、とうなだれて帰る咲子が、しょんぼりとしながら、それでも母と二人の夕食の買い物をして家に帰ると。
母がちゃぶ台に突っ伏していた。
「お母さん、お母さん」何度も母を揺さぶるが返事も動きもない。脈を取るとこと切れていた。
その時咲子の頭の中で、何かが音を立ててはじけた。そしてネジが何本か外れてしまった。そんな目もうつろな咲子の口から零れ落ちてきたのは、誰も聴いたことのない美しいメロディの詠唱だった。
というわけで今、僕は妄想の世界から帰ってきた。もちろん仕事の腕は止めていない。
そのへん、プロだからね。
咲子、という名前も僕が勝手につけた。今の短い物語も、ごめん、僕の妄想だ。本当かって思った?お婆さんの凄い歌を聞いて、何者なの?と思ったら、妄想膨らんじゃったんだよなぁ。
と、そのタイミングで。
あの声が帰ってきた。ものすごく深くも鋭さを持った歌声。でも拡がりも感じさせる。
慌てて道路を見ると、天王町の方からまたあのお婆さんが帰ってくる。歌いながら。
どこかで横断歩道を渡ったようで、今度は同じ道路の向かい側の歩道を歩いている。僕の今いるところからは、お婆さんの様子も見やすい。さっきはビルの真下を通る形だったからね。
さっき通り過ぎてからは、多分15分くらいは経っている。だってあれだけの妄想を繰り広げられるくらいの時間だったわけだし。
よし、今度は窓辺でじっくりと聴いてやろう。すごい歌だものな。
向こうからだんだんと近づいてくる歌を聞きながら、一つの疑問が頭をもたげた。
お婆ちゃんの今歌っている曲って、ひょっとしたら、さっきの曲が延々と続いているのではないだろうか。
もちろんさっきの曲だって、細部まで覚えているわけではない。でも、曲のビート感や匂いが同じに思えるのだ。15分くらいは経っているのだから、さっきとは違う曲でもおかしくない。むしろその方が自然だ。でも、そういう風に聴こえないんだな。これはさっきの曲の続きのように聴こえる。とすると、これはやっぱりオペラとかクラシックの曲なのかな?普通のポップスや歌謡曲で15分以上ある曲はめったにないし。
そんなことを想いつつ、近づいてくる歌を聞くうちに、もう一つ、更に恐ろしいような疑問がわいてきた。
お婆さんが今歌っているのは、さっきから切れ目なしに続いているだけでなく、ひょっとして即興で歌っているのではないだろうか?
ほら、さっき、僕もジャズギターをちょっとかじっているという話をしたろ?ジャズって、即興が大事な要素を占める音楽。あらかじめ決まっているテーマと、それを発展させていくアドリブの部分の対比が面白い音楽であるともいえる。
僕は即興の奏者としては、ぜんっぜん大したことはないけれど、でも、たまに即興のフレーズが良い感じにつながっていくことがある。即興のフレーズにはしっかりと熟慮の末作曲された音楽とは、違う匂いがあるのだ。
そして今、歌いながら近づいてくる彼女の歌に、そんな匂いをびんびんと感じてしまうのだ。
別に即興だから偉いわけではない。でもこのお婆さんには、即興でこれだけの音楽を生み出せるだけのパワーと、出さずにはいられない音楽のマグマを体内に抱えていることになる。僕はちょっとブルッとした。
そんなことを考えているうちに、お婆さんはついに僕の真正面まで来た。
向かいのビルの二階から、まじまじと自分のことを見る男にお婆さんも気づいたのだろう。そこで歩みを止め、僕の方に向きを変えた。「気をつけ」の姿勢をして、僕に向かって歌いかけてくる。
僕も思わず、気をつけって程ではないけれど、でもしっかりと姿勢を正した。
「心して聴かせていただきます。咲子さん」
勝手に妄想の中で名づけた咲子さんという名は、しかしあの瞬間にはあの老婆と一体になっていた。
咲子さんは歌った。
僕は今までのどんな音楽を聴く時よりも、真剣に聴いた。
咲子さんはその歌で、僕を遠くの異国に連れ出し、宇宙空間に放り投げ、滝つぼに叩き込み、落とし穴から救い出した。
その歌で、最高の哀しみと最大のよろこびと、名前のつけられない感情の数々を僕に体験させた。
なんなんだ、この歌は?魔術なのか?
ふと気づくと歌が終わっていた。
たぶん僕と相対して歌ってくれていたのは5分もなかったと思う。
素晴らしかった。至高の音楽体験だった。
僕は全力で拍手した。
たまたま通りがかった、中年の買い物袋を下げた女性が、訝しげに僕の方を見上げていた。
咲子さんは僕に向かって一礼した。僕も最大の感謝と敬意を込めて深く礼をした。彼女は和田町の方へゆっくり歩き始めた。
僕は咲子さんの姿が見えなくなるまで窓から顔を出して見送った。晴天の下、咲子さんの足取りは、心持軽いように見えた。
その後も毎月一回、僕はあの星川のビルに仕事をしに行くが、残念なことに咲子さんに会うことができない。
歌うことを止められたのか、それとも歌う散歩のルートを変えてしまったのか、それとも。