次の電車は、僕の住んでいる街に止まるのか、止まらないのか。
もし間違えた電車に乗ってしまったら、帰るには、どのホームから、どの電車に乗ればいいのか。
駅員さんや近くにいる大人に聞けば、たぶんみんな親切に教えてくれるだろうけれど、みんな、絶対に、僕が、字を読める、と信じて教えてくれるに違いないんだ。
「“ふたまたがわ”で降りて“かくえきていしゃ”に乗り換えて」と言われても、僕は車内のドアの上に流れる漢字が読めない。
車内アナウンスをずっと緊張して待っていなくちゃならない。もしアナウンスがはっきり聞き取れなかったら、どこが二俣川駅なのかわからない。うまく目的の駅で降りられたとしても、やってきた電車の表示が“各停”と書いてあるのか“急行”と書いてあるのかが分からない。
僕は、字を読んだり書いたりするのがとても苦手だ。
「トム・クルーズと一緒なのよ」とお母さんが言っていた。
トムクルーズは有名な俳優だけど、台本の字が読めなくて、人に読んでもらってセリフを覚えるのだそうだ。
僕は、ひらがなは読み書きできる。
カタカナももうほとんど問題なくできるようになった。
漢字は、特訓中だ。
僕にとって、文字はどれも似たような、でも見るたびに少しずつ変化する謎の模様だ。
文字を書き写すときは、一文字一文字、元の字を指で押さえながらでないと、自分が今書いているのがどの文字なのかすぐにわからなくなってしまう。
だから黒板を書き写すのはとても大変だ。黒板の文字は指で押さえられない。
「どうして黒板を書き写さないの?」
先生に聞かれたとき、僕は正直に「わからない」と答えた。
どうしてか、僕には本当にわからなかったんだ。どうして僕は黒板の字が写せないのか、
どうしてみんなは、黒板のあの謎の模様を、すらすらと書き写しているのか。
先生は怖い顔をして「書きなさい」と言った。クラスのみんなが僕を笑いながら見ていた。
連絡事項を書き写すのが間に合わなくて、明日の時間割が分からず、お母さんに何度も叱られた。
「どうして書いてこなかったの?」
「わからない」
僕には本当に、分からなかったんだ。
そのうち、お母さんが担任の先生に呼び出され、一つも答えの書いていない国語のテスト用紙を見せられて、それから、お母さんは僕を病院に連れて行った。
病院の先生は、僕が生まれつき、字の読み書きがとても苦手な障害があるんだと言った。
それで、僕は今、漢字が書けるようになるための教室に通っている。
教室では、僕に合った漢字の覚え方で、先生と一緒に練習している。
学校の宿題みたいに同じ漢字を何べんも書くやり方では、僕にはちっとも覚えられないからだ。
教室はちょっと遠いので、電車に乗って通わなければならない。
教室の帰り道、電車の窓の外にユリが咲いているのが見えた。
僕は百合という字を知っている。
保育園から一緒の百合ちゃんがクラスにいるからだ。
百合ちゃんは、保育園の時から自分の名前が漢字で書けた。
「百」は100のことで、「一」「ノ」「日」って書く。僕は「一ノ日に百円もらえる」って覚えた。
「合」の覚え方は「やねの下で一口食べるのが合う」、だ。
電車がスピードを上げて、ユリの花はあっという間に見えなくなった。
しまった!しまったしまった!!
僕は飛び起きて、あたりを見回した。今、どこにいるんだろう。
立ち上がってドアの上の文字を見たけれど、焦っていて何の字が書いてあるのか少しもわからなかった。
窓の外はもううす暗くなってきていたけれど、見覚えのない町なのは確かで、自分が降りる駅を通り過ぎてしまったのが分かった。
僕は電車が止まるのをじりじりしながら待って、着いた駅で飛び降りた。
どこまで来てしまったんだろう。
ポケットの携帯からお母さんに電話を掛けようとしたけれど、もう反対側のホームに電車が近づいてきていた。
ぼくは迫ってくる電車の正面をにらみつけた。各停に乗れれば時間はかかっても確実に家に帰れる。急行だと乗り換えないとならない。だいたい正面に書いてある文字が赤っぽければ急行なんだけど、赤い文字で「各停」って書いてあることもあるし、「各停」とか「急行」とかの文字は電車によって書いてある場所がちょっと違うから、余計読み取るのが難しい。電車が止まってから電車の横にある表示を読むのだと、がんばって読んでいるうちに乗らないのだと思われてドアが閉まってしまうことがあるから、のんびりはできない。
たぶん、各停。
もう、そう信じるしかない。
とにかく僕は電車に飛び乗った。早く家に帰りつきたかった。
もし各停でなくても、前にお母さんから「のぼりの電車は全部横浜どまりだから大丈夫。困ったらとにかく一度横浜まで行ってもう一回乗りなおせばいいよ」、と言われていたので、間違っていたとしても大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせた。
上りの電車はすいていたけれど、僕は座らずにドアの脇に立っていた。
外はゆっくりと暗くなっていった。
知らない駅をいくつか通り過ぎて、やっと、車内アナウンスが、僕の降りる駅の名前を放送した。
お母さんは、ご飯の支度をして僕を待っていた。
「少し遅かったね」
「うん」とだけ僕は言った。
「大丈夫だった?」
「うん。大丈夫。」
なんとなく僕は、お母さんに言いたくなくて黙っていた。お母さんももう聞いてこなかった。
ご飯を食べながら、僕はどうしても気になっていたことをお母さんに聞いてみた。
「電車さ、横浜より先に行くようになるんでしょ?」
どんなに間違えても、上り電車は横浜駅で終点だとわかっているのは気持ちが楽だ。でもその電車が、もうすぐ横浜より先まで、東京まで行けるようになるらしい。
「そうだね、便利になるね」とお母さんは言った。
たくさんの人に便利になる。でも、文字が読めないと、遠くまで行く電車に乗るのはとても怖い。
僕が黙っていると、お母さんはもう一度「便利になるよ」と言った。それから「大丈夫だよ」と付け加えた。
僕はまた「うん。」とだけ答えた。
文字が読めれば、遠くまで行ける。
電車は僕を遠くまで連れて行ってくれる。
行ってみたいところはたくさんある。電車に乗って、見てみたい場所に行ける。
きっと大丈夫。
今日だって、ちゃんとこうして帰ってこれたし、それになにより、僕は必ず、文字が読めるようになる。
文字が読めれば、電車に乗るのは怖くない。必ず、電車に乗って、遠くまで行ってみせるんだ。
なぜだか急に、電車の窓から見えたユリの花を思い出しながら、僕はもう一度、「うん。」とうなずいた。