その店は、住宅街の真ん中にぽつんとあった。相鉄線・和田町駅から徒歩五分。周囲には一、二階建ての個人宅や、二、三階建てのアパートが、付かず離れずの距離を保って並んでいる。
「だがしの店 白ねこ堂」――店先に置かれたジュースの自動販売機に、そう屋号が書かれている。アルミサッシの引き戸が出入り口だ。間口は一メートルにも満たない。
「おや、お帰り」
サッシをくぐると、おばちゃんが穏やかな声で迎えてくれる。先客が二人。小学校高学年の兄と、低学年の妹だろうか。仲良く相談しながら、小さなかごの中に駄菓子を入れていく。
通路はせまく、他の客とすれ違うにもひと苦労だ。兄妹が会計を済ませ、こちらへ向かってくる。俺は棚にへばりついて、彼らの通り過ぎるのを待つ。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
おばちゃんが兄妹に声を掛けると、ほぼ同時に踏切警報機が鳴りだした。窓の外を列車が通過していく。
「あぁ、また紺の電車が来たよ」
「ネイビーブルーね。あれってまだ、二編成しかないんだってよ。見れたらラッキー、乗れたらもっとラッキーだよ」
「あたしにとっちゃ相鉄線はグリーンだけどね。うんと薄い黄緑色」
「俺には銀のイメージだけどなぁ。赤いラインだったり、青いラインだったり」
警報音が途切れ、ギイと軋んでバーが上がっていく。先ほどの兄妹が手をつなぎ、走って線路を渡っていった。おばちゃんは彼らに手を振って、俺の方に向き直る。
「それより今日はずいぶん早いじゃない。まだお日様が沈まないうちに来るなんて」
「出先から直帰できたんだよ。何か新しいお菓子入った?」
言いながら店内を見回す。定番メニューをかごに入れ、おばちゃんの薦める新作の菓子も追加する。
「あんたはいっつもこれだねぇ。お湯入れていいよね」
「うん。これ食べないと、ここに来た気がしないからね」
おばちゃんがお湯を注ぐのは、小さなカップラーメンだ。値段は一つ八六円。三十年前は消費税もなく、五〇円で買えた。
千円札と引き換えに、釣り銭と、白いビニール袋に入った駄菓子と、カップラーメンの容器を受け取る。
「今日はもう店じまいかねぇ」
プラスチックのフォークを手に、おばちゃんは俺を店先へとうながした。二人でベンチに腰掛ける。沈みかけの夕日は、しかし町並みをオレンジ色に染めて、山際に踏み留まっている。三十年前と同じ光景だった。
*
千円札を握りしめた僕は、店に入るや否や、小さなカップラーメンをかごいっぱいに詰めて、レジに向かった。
「こんなにいっぱいラーメンばっかり、どうするの?」
「いいから、ここに入れて!」
僕は背負っていたリュックを下ろし、ファスナーを開ける。修学旅行で使った大きなリュックだ。小さなカップラーメン二十個くらい、余裕で詰め込める。
「たくさん買ってくれるのは嬉しいけどね、そんな買われ方したら、お菓子たちも、おばちゃんも悲しいわ」
のんびりした口調に、僕はいらいらした。
「売ってくれなきゃ困るの! 早く!」
「それなら分割にしよう。一日一個、ボクがお店に取りに来る。お金はツケにしてあげる。最後の二十個目を渡す時に払ってくれればいいから」
「分割なんかじゃダメだよ! 今すぐいるんだ……」
おばちゃんは首を傾げながら、僕の目を見つめてくる。
「家出でもするつもり? お湯をもらう当てはあるの?」
警報機が鳴り、やがて電車が通過する音がした。警報機は鳴り止まない。もう一度、電車が通過する。キイと軽やかな音を立てて、バーが上がった。それでも僕の頭の中で、警報機はカンカンカンカンと鳴り続けていた。
「これはおばちゃんのおごり。一緒にベンチで食べよう」
おばちゃんは僕の頭にぽんと手を置くと、かごから小さな容器を二つ取り上げた。ポットから熱湯が注がれる。ラーメンができあがるまで三分間。今までで一番長く感じた三分の間に、両親への不満、妹へのむかむかで沸騰していた僕の頭は、徐々にほぐれていった。
*
「この小さなラーメンを買い占めて、どこに行こうとしていたの」
あの日と同じように、左隣に座ったおばちゃんが聞いてくる。今なら、その答えが分かる気がした。
「三十年後の、この場所じゃないかな」
おばちゃんは一瞬きょとんとして、ふっと口元をほころばせた。
「三十年前だって、三十年後だって、どこへだって行けるわ」
空になった容器を引き取ると、おばちゃんは俺の背中をぽんとたたいた。
「さぁ、いってらっしゃい」
「まだ当分、ツケは払い終わりそうにないな」
おばちゃんに手を振って、俺は家路につく。濃紺の空に星が瞬きはじめた。同じ色をした電車がゴーッと音を立てて、まだ片側だけの高架を走り過ぎていった。
著者
梨蟹u5