僕も母親と一緒にナイターを観に行ったことがある。小学校3年くらい、はじめてのナイター観戦だった。学校が終わると走って家へ帰った。ランドセルを放り投げると母と一緒に国分寺台から海老名駅までバスで行き、そのまま相鉄線に乗った。僕は紺色に白で大きく「W」と刺繍された帽子をかぶっていた。子どもの頃から何事においても目立たなかった僕だが、今でも同級生から「おまえいつも大洋の帽子をかぶっていたよな」と笑われるほどかぶっていた。横浜駅で国鉄の根岸線に乗り換えて関内駅で降りた。降りてすぐに横浜スタジアムがみえた。薄暮れの紫の中、白く光る巨大なスタジアムに心を奪われた。何日も前から楽しみにしていた初めてのナイター観戦を少しでも早く味わうために、僕は母を急かしてスタジアムへ走った。
その日、横浜大洋ホエールズが勝ったはずだ。緑に輝くグラウンドを意のままに駆け抜ける高木豊や屋鋪要、漆黒の空に白い放物線を描く田代富雄やレオン・リー。そしてマウンドで奮闘する遠藤一彦に斉藤明雄。とにかく格好良かった。でも記録を遡ってもそんな試合はない。いろいろな記憶が混ざったのだろう。実際にホエールズは弱く、よく負けた。ただ試合が早く進み最後まで観戦してから帰ったことははっきり覚えている。家へ帰る相鉄線の車内で母と「最後まで見られてよかったね」と話したのだから。
横浜駅のホームで相鉄線が来るのを待ちながら、ナイター観戦の興奮をいつまでもかみしめるように、僕は母親に話しかけていた。
「遠藤はロッテの村田みたいにフォークを投げられるんだ。東海大出身で…、お母さん、ちゃんと聞いてる?」
母はフォークと聞いて食器しか思い浮かばないような人だ。それでも多くの親と同じように、子どもの直感的な展開の話にも興味を持っているように反応して続きを促した。続きを話そうとするとステンレスのボディーに赤色が印象的な車両が入線してきた。僕はしゃべるのをやめて電車内に入り二人分の席を確保した。
夜の電車はサラリーマンがほとんどだった。その中で母とホエールズの帽子をかぶった僕の二人は目立っていた。スーツを着た大勢の男たちを何気なく見ていると、サラリーマンと偶然目が合った。サラリーマンは笑顔をみせてくれたが、僕は緊張して思わず目をそらした。思わず悪いことをしてしまったと思い、今日の試合のことを母に熱心に話しかけた。すると「少し静かにしなさい」と母にしかられた。
横浜駅を出ると相鉄線は国道16号線と帷子川に沿うように進む。車窓からはどこまでもマンションや一軒家が続いて見える。その日、僕は初めて夜の車窓から横浜の街並みを眺めた。昼間に横浜へ買い物に行くときに見られる騒然と連なる家の風景ではなく、各家の明かりが点々として街全体を形作っている眺めは新鮮だった。横浜と聞けばみなとみらいや関内、中華街のような場所を思い浮かべる人が多い。でも僕にとっての横浜は今も昔も相鉄線の車窓から見える風景だった。ひとつひとつの住宅や明かりにはそれぞれの家族がそれぞれの人生が紡がれている。同じように見えるが、紡ぎ出された糸は一本一本確実に違う。その個性的な糸たちがさらに織り込まれて巨大なタペストリーとなる。小さなひとつひとつが織り重なってできあがったものこそが横浜だった。
車窓を白い光が覆った。星川駅を通過した。今年下りが高架になった星川駅は車窓からの眺めが昔と変わっているかもしれない。しかしいつの頃からか車窓から風景をじっくり見ることはなくなった。スマートフォンの画面ばかり見るようになった。
「お母さん、ちゃんと聞いているの? いつもスマホばかり見ている」
帽子をかぶった男の子が不満そうに母親に言っている。やがて電車が二俣川駅に到着した。ここで降りる人、いずみの線に乗り換える人が降りていく。車内は混雑したままだが、それでもゆとりが出てきた。
「ちゃんと聞いているよ、お父さんとおじさんにLINE入れといた。今日の写真も送ったから。おじさん次は一緒に行きたいって」
京都出身の母は関東に知り合いがほとんどいなかったが、母の兄がたまたま左近山団地に住んでいた。叔父の家に行く時は二俣川駅で降りてバスに乗って左近山へ行った。
叔父夫婦には子どもがいなかったからか、よく可愛がってもらった。小学校高学年になると叔父に横浜スタジアムへ連れて行ってもらった。週末の夜に叔父の家に泊まり、翌日に横浜スタジアムへ向かうのがパターンだった。しかし中学生になる頃には叔父の家に行くこともなくなった。僕が大学生の時にあっけなく死んでしまった。癌だった。その後叔母も入院したり施設に入ったりしている間に居場所が分からなくなり、連絡も取れなくなった。叔父の葬式以来、左近山団地とは縁がすっかりきれてしまった。
相鉄線の急行は二俣川駅を過ぎると海老名駅まで各駅に停車する。同じ横浜市内でも駅に停まる分、二俣川駅、希望ヶ丘駅、三ツ境駅、瀬谷駅とそれぞれが異なった顔を持つ街に感じる。駅を通過する度に街をひとつずつ通り、海老名駅に近づく。ホッとした気分になる。
「もういいかげん野球のルール覚えてよ」
野球帽をかぶった子どもは母親につぶやいた。「もう覚えたわ、ツツゴーでしょ、あと外国人選手のロペス」と母親は反応すると、子どもは「選手の名前ばっかりじゃん」と言い返した。子どもは少し黙ってから「次行ったときはユニフォーム買ってね」と続けると伸びをひとつしてそのまま母親にもたれかかって眠ってしまった。
電車が瀬谷駅を過ぎて大和市内に入るとすぐに地下へ潜るともう大和駅だ。母は今、この大和駅からバスで15分ほど行ったところの療養病院に入院している。50年ほど前、母は結婚とともに父の住む海老名市中新田にやってきた。今でこそ駅前が開発された海老名市だが、当時はスーパーひとつなかった。母の実家は京都、父の実家も群馬と身近に頼る人がいなかった。
「最初中新田に来た時ね、まわりは田んぼばかり。買い物行くのに、あなたを負ぶってバスで30分くらいかけて厚木まで行ったのよ。なんかとんでもないところに来ちゃったなあと泣きそうだったのよ」
父の葬式の時、母は結婚当初、京都から海老名へ来た当時の思い出を話してくれた。ふたりは5年ほど中新田で暮らした後、海老名市内で住宅街として開発が進んでいた国分寺台に家を買った。国分寺台はまだ空き地も多く狸も出るほど自然が残っていた。それでもスーパーも商店街も幼稚園も小学校も歩いて行ける距離にあった。バス停も近かった。ここで暮らすことで家族の生活はようやく落ち着いた。母は子を育て、家を守り、パートで働きながら、今までの我慢を取り戻そうとするかのように趣味に精を出した。染織物や手毬を習いに毎週横浜まで通うようになった。いつか家は母の作品でいっぱいになった。
もう国分寺台に引っ越してから40年以上経過する。街は高齢者も増えて、商店街に入居しているお店も高齢者サポートセンターがあるくらいだ。空き家も多くなった。父が亡くなった。母と仲の良かった近所のおばさんも息子に引き取られて引っ越してしまった。僕たち家族も二人暮らしになったので駅や病院に近いところへ引っ越すほうが便利かもしれなかった。だけどこの街から離れるつもりはなかった。
父に先立たれてから半年ほどして母は体調を崩した、そしてそのまま体力が落ちて介護を必要とする生活を送るようになった。母の身体はどんどん小さくなっていった。同じ時期に僕も人間関係が煩わしくなり、残業や居酒屋に寄ることもすっかりやめていた。まっすぐ家に帰って母と一緒に夕食を取るようになった。母も僕も生きているだけで疲れていた。
明るい話題も無いので食卓ではいつもテレビを見ながら時間を過ごした。どの番組でも良かったがTVKで横浜DeNAの試合がある時だけはTVKにチャンネルを合わせた。僕は「ラミレスは…、中村ノリさんは…、三浦番長は…」と母にいつも話していた。結局野球のルールはよく分からなかったようだが、ラミレスだけは覚えて、「ラミちゃんの順番よ。ヒット打たないかしら」とテレビに映ると喜んでいた。
ある日母が倒れた。病院へ連れて行くとそのまま入院となった。呼吸不全という診察を受け、24時間人工呼吸器を装着することになった。それとともに母は声を失った。同時に筋力の衰える病気にもかかり、ついに寝たきりとなった。それから3年、母は病院を転々として今は大和の療養病院で入院生活を送っている。面会に行っても眠っていることの方が多い。もう母は声を出すことや手を動かすことはもちろんのこと首の向きを変えることもできない。目ヤニが目にこびりついてしまい目を開けることも難しい。それでも起きているときは眉毛を動かして起きていると教えてくれる。母は何を思い、ベッドに横たわっているのだろうか。
「もうそろそろ海老名駅よ、起きなさいよ」
久しぶりに母の声が聞こえたような気がして目を覚ました。周りを見ると乗客が次々と先頭の10号車を目指して移動していった。いつの間にか目の前に座っていたDeNAの野球帽子かぶった男の子とその母親もいなくなっていた。懐かしさを感じさせるような明かりで照らされた車両の中で、ユニフォームを着ているのは僕一人だけだった。
ネイビーブルーの車両が海老名駅に入線した。ドアが開き僕は席を立ち、最後にホームへ出た。湿気と暑さが身体にまとまわりついてきた。だけどそのジメジメした空気ですら心地良かった。改札を通り原付を停めてある駐輪場へ向かう。途中明日の朝食を買うためにコンビニへ寄るから、ここでユニフォームを脱ぐか迷ったけれど今日は着たまま家まで帰ることにした。明日は会社帰りに母の面会へ行こう、そして今日の話をしよう。母はまた野球の話ばかりするとうんざりしてくれるだろうか。