明朝ベットを抜け出し、パンとコーヒーで軽く朝食を済ませ、窓から差し込むやわらかな朝日を浴びながら新聞を読んでくつろいでいた。ふと新聞から目をあげて、昨晩見た不思議な夢のことをぼんやりと考えた。あれはどこかで見たテレビ番組か映画の映像を頭の中でリプレイしていたのだろうか。いや、そんな感じではない、そんな作り物っぽくなくて、リアリティさが全然違った。第一、そんな映像を主人公役の顔や姿を見せずに撮影するものだろうか。もしやこれは夢のかたちを借りた何かのメッセージではなかろうかと考えてみた。そして何気なく、リビングの端に置かれたマガジンラックに目を留めた。そこには相鉄沿線を紹介する本があった。そうだ、これをこのあいだ興味本位で購入してつらつらと眺めたとき、上星川からさらに二つ先の鶴ヶ峰駅界隈で、鎌倉時代の武将がここで非業の最期を遂げたと書いてあったのを思い出した。その本を恐る恐る手に取ってみるとやはりその記事はあった。すっかり忘れてしまっていた武将の名は畠山重忠とあった。歴史は好きな方で時代小説も好んで手に取る方ではあるが、この名前はそれまで目にしたことがなかったものだ。一体何者なんだろうか。タブレットで急いで畠山重忠に関する情報を検索してみた。そこで語られている内容はおおよそ次の通りだった。
この武将は現在の埼玉県にゆかりのある者で、最初は源頼朝に敵対する平家の勢力に身を寄せていたが、ほどなく頼朝方に加わって、その後全国を転戦、膂力に優れた武の者として名を残すだけでなく、知将・仁将としても知られ、その人望は他の有力御家人を凌ぐものがあったそうだ。
しかし、それが逆に災いしてか、約800年ほど前に鎌倉幕府軍と畠山軍との間で鶴ヶ峰・二俣川の合戦が起こった。ただこの戦いは合戦といっても尋常なものでは決してなかったようだ。鎌倉幕府で間もなく執権として揺るぎない地位を確立することになる北条家の奸計によって、「鎌倉に異変あり」として嘘の呼び出しを受けた重忠が、130騎ほどの家臣を引き連れ街道を鎌倉へと急行した。しかし、北条によって既に畠山家は幕府に対して謀反を起こしたことにされてしまっており、二俣川のほとりで北条率いる幕府軍と心ならずも対峙することになったのだ。そしてこのとき幕府軍はなんと1万騎をも数える大軍だったらしい。ちなみに万騎が原の地名はこの軍が陣を張ったことに由来するそうだ。戦国期で10倍の敵を打ち破った例は確かあったが、籠城戦でもなく、これほどの戦力差を退けた例はない。背水の陣どころではない、まさしく絶対絶命の戦いだ。さらに状況は悪いことに、この戦いが始まる前に鎌倉で嫡男の重保もまた北条の謀略によって殺されており、その報は重忠の耳にも届いていたという。
そうした状況にあっても、後に板東武者の鑑とされた重忠の心は揺るがない。家臣に引き返すよう進言されても「潔く戦うことが武士の本懐」と言って退け、死の前にも「我が心正かればこの矢にて枝葉を生じ繁茂させよ」と言って2本の矢を地面に突き刺した(のち「さかさ矢竹」となる)という。
夕刻にいつものようにジョギングに出かけた。
普段は足を向けない方角なのだが、妙に気になってしまい、鶴ヶ峰へと向かった。鶴ヶ峰の駅から少し離れた場所に目印となる旭区役所があったので少し迷ったが、確かにこの周辺に畠山重忠公関係の史跡が集中していた。そして、厚木街道沿いの交差点の小高くなった一角に重忠公終焉の地の標識を見つけた。現在はその真下にトンネルが築かれ、二俣川と合流したばかりの帷子川が大きな流れとなって貫いている。これほどの都会で800年前の地形がそのまま残っているということの方が珍しいとは思うが、人工物が多すぎて当時の面影はほとんど感じられなかった。しかし、はるか眼下の川の流れをみるに、かなり険しい谷が展開されていたのだろうと想像することは難しくない。重忠公はこの見通しのきく場所から、あの夢のように、谷を駆け上ってくる幕府軍と真っ向勝負したのだろうか。鎌倉幕府の建設に長年貢献したのに、一族滅亡となるであろう悲哀を感じつつも、本当に潔く戦うことにのみ集中できたのだろうか。
釈然としない思いを抱えながら、その場を後にしようと一旦背を向けたが、ふと異様な気配を感じて振り返った。太陽が沈む直前のまばゆい光溢れる夕景の中にうっすらとした輪郭の騎馬武者がこちらを向いて佇んでいた。普通なら驚くべきところだが、むしろ昨晩ホーム上で感じた懐かしい匂いの風の正体はこれだったかと妙に納得した。そのいでたちとは裏腹にこちらに優しい眼差しを投げかけてくれていた。そして間もなく夕闇の中に溶けていった。
結局は敗者だった。それは間違いない。
バブル崩壊以降、この国の勢いに大きな陰が落ちてきた。しかも経済だけでなく、度重なる大きな天災まで追い打ちをかける。街ゆく人々の顔には明るさは見えない。将来に希望を持てない人が多いせいか、暗いニュースばかりが世の中に溢れている。
勝ち組と負け組、嫌な分け方だ。そんな分けられ方をしたら、誰だって負け組には入れられまいと目先のことに必死になるに決まっているではないか。しかし、そんなことの繰り返しで勝ち組に残り続けたとして、本当の満足は得られるものだろうか。現代に生きる我々はいろいろと考えを改めるべき時にきているのかもしれない。第一勝負は時の運というではないか。結果ばかりに目を奪われていては大事なものを見落としてしまう。そのために耳を澄まそう、目を凝らそう、いつだってヒントは身の回りにあるのだから。
初めての武家社会が成立するかしないかという時代に、組織に忠義を尽くして、最後は組織に裏切られた。しかし、彼はその道を愚直に歩みきることを選んだ。生き残るためではない。武士道の概念も定まらぬ時代に自らを忠義という十字架にかけたのだ。そんなことは普通の人間にできることではない。だからこそ勝負に敗れただけのこの土地でかくも敬愛されているのだろう。
私も愚直に生きて行こう。どうせ不器用すぎてそれしかできない。
またあの懐かしい匂いの風だ。実に清々しい。
そういえば相鉄も愚直に頑張ってるイメージの会社だよなと思った。
脈絡なく久々にビートルズのレット・イット・ビー聞きたくなった。
私は家路へ向け足を踏み込んだ。