懐かしいものが出てきたものだ。小学生のころからため込んだ、作文や手紙、交換日記がお菓子の缶の中に押し込まれていた。引越しの準備ついでに色々処分してしまおうと、今日はずっと部屋を片付けている。おそらく学校には提出しなかったその作文と一緒に、「きれいなぴかぴかしたお花のシール」が挟まっていた。胸がちくりとする、その日の記憶が、不意に浮かんでくる。
私はその日、どうしたのか。家についたら、どうしても心臓がばくばくしてしまって。本当は黙っていればよかったのだけど―親に黙って冒険をするなんて、子どもにとって特別で、楽しいことなのだから―でも、なんだか私は不安になって、ねえ、お母さん、と言った。
「今日、さやかちゃんと遊んだ」
「そうね、楽しかった?」
「うん……」
何をしたの、どこへ行ったのと聞いてほしくて、自分の懺悔を聞いてほしくて、そのときはそんな言葉を知らなかったけれど、それでもあの時の私はきっと、罪の意識をどうしても拭いたくて、お母さん、お母さんと助けを求めるのだった。
「大和に行ったの」
これをね、と、ぴかぴかのシールを手に、そう言ったら、お母さんはあら、というふうに何かを感じ取ってくれたみたいで、お金はどうしたの? とか、どうしてとか、尋ねてくれた。さやかちゃんとの秘密の冒険は、もうその日にすぐにバレてしまった。黙っておくことが、私にはできなかった。
たしかその日は、お母さんは私を怒ったりはしなかった。でもお金は返さなくちゃね、と、翌日一緒にさやかちゃんの家に行って、往復の電車賃と、シールの代金を返した。あのときは、まだ消費税は5%だったから、金額の計算は簡単だったろう。さやかちゃんのお母さんは、うちの子が連れ出したんでしょう、ごめんなさいね、と謝った。彼女は本当に、悪気も何もなく誘ってくれただけだったのかもしれないけれど、お母さんには彼女のことが悪い子に見えてしまっただろうか。正直に言って、なんでそんなことを今でも覚えているかはわからないけど、すごく居心地が悪かった。
もう勝手に危ないことはしちゃだめよと、お金の貸し借りもしてはいけないよと、言われた。
その日から数日、さやかちゃんと私はなんだか気まずくて、一緒に遊ぶことは少なくなった。だけれども、そこはさすがお子ちゃまだなと今思う、数日経ってしまえば、また以前のように泉の森で秘密基地ごっこをして遊んでいたはずだ。
でもとても印象的で私の記憶にあるその日の映像、緊張感。ユザワヤのビルがまだ、全部5階までユザワヤであった頃の話だ。背の高い、シールのかかった棚は魅力的で、なんだか恐ろしかった。
いけないと言われていることをしている、悪いことをしているのだという気持ちと、そこにある非日常感。今思えば、近くの文房具屋さんに行った、というなんてことのない日常なのだけど。そのときの私にはなんとも特別な一日だった。
さやかちゃんとは、その後も友人関係が続いていた。小学生の間はしばらく仲が良かったが、中学に上がり少しずつ付き合う友人が変わっていき、どこの高校を受けるかということさえ、お互いに知らないまま、離れ離れになった。あの時はあんなに仲が良かったのに、友人とは、人間関係とは不思議で、思っていたよりも薄情なものだなと、日々実感している。小学生だった私たちは、将来一緒に旅行に行こうねなんて言っていたけれど、今では連絡先さえ知らない。でも、なんとなく、元気にしているんだろう。幸せになっていてほしいと思う。彼女の中で、私は生きているだろうか。あの日のことを、彼女は覚えているだろうか。
あの子が手を引いてくれたことが、その時は褒められたことではなかったかもしれないけれど、それでも子どもの自分たちだけで何かができるのだと、自分は実はどこへでも行けるのだと、なんとなくの想像ではなく、実感としてそれを認めることができた。そして罪の意識も学んだ、大切な1日だった。そう、大切な思い出なのだ。
今きっと彼女は、この地域には住んでいないのだろうけれど、相鉄線にも乗っていないのだろうけれど。私はきっと忘れられない。あの日の景色も、気持ちもすべて。色んなことを思い出させたその作文は捨てずに箱の中にしまい、シールと共にまた眠らせた。