行けども行けども、田園風景しか見えなかった。十二匹(正確に数えた)の猫と僕と、猫の紳士は、ゆらゆらと何もない道を歩き続けている。ぽつぽつと民家やガソリンスタンドや中古車センターはあるけれど、人影なんて一切ない。
猫連れの紳士はナカザトさんというらしい。毎晩のようにこうして猫を連れてこの辺りを一周するのだそうだ。
「本当はうちにお招きできればいいのですが、猫の毛だらけのうえ狭いのです。すみません」
すまなさそうにそう言いながら、ナカザトさんはゆっくりと、畑と畑に挟まれた道を歩いていく。暗いのではっきりとは見えないけど、そのうちに畑は田んぼに変わった。右の田んぼにも左の田んぼにも、すでにうっすらと水が入っている。神奈川ではいつごろ、田植えをするのだろう。
「水田は珍しいですか」
ナカザトさんはきょろきょろしている僕にそう尋ねた。
「いえ、僕、実家は新潟なので」
「新潟……魚沼産のお米はおいしいですよね」
「いやまあそんな、メジャーなとこじゃなくて……本当にただの田舎なんですけど」
大学でできた顔見知りに説明をするとき、本当にこまるのだ。新潟と聞くとみんな真っ先に「コメとスキーの街でしょ?」と聞いてくるけど、地元はそのどっちも有名ではないから。
「横浜もね、まあ海沿いでもないとこはこんな感じなんですよ、みんな『何もない』って驚きます」
小さく苦笑しながらナカザトさんは言った。
「そうですね、そもそも横浜で米つくってるってこと自体、僕知らなかったです」
僕がこたえると、なおも小さく、ナカザトさんが笑う。
猫たちが音もなく、ほとんど真っ黒な影のように暗闇に溶け込んで、会話をする僕たちの周りを囲んで歩いていた。これまで特に意識もせず生きてきたけど、猫というのよく分からない生き物だ。ほっそりしているのにつるんと丸いような、不思議な身体をして、毛並みはパサパサしているようでもあり妙につやつやとしているようでもあって。一定の距離をとり、楽しくもなさそうにただ、ついてくる。
「これは全部、飼いネコですか」
「いえ、ほとんどは野良です。途中で勝手に合流してくるんですよ」
「なんでそんなに懐かれるんですか? エサでもやってるんですか?」
これはさっきから疑問だった。僕は人生で、ここまでたくさんの猫に囲まれた経験がない。飼い猫だって飼い主以外には懐かないし、野良猫は人を見たら逃げるものだと思っていた。ナカザトさんはどんな裏ワザを使って、この状況を作り出したのだろう。
「さあ……」
ナカザトさんは首をかしげて笑うばかりだ。
「猫は寂しい人間が分かるのかもしれません」
ひょうひょうと言うその姿は、とても寂しい人間には見えない。部屋は猫の毛だらけと言っていたけど、暗がりで見る限り、スーツにはまったくそんなものはついていなくて、清潔そのものだった。猫は不思議な生き物だけど、不思議といえばこの人も不思議だ。
そこまで考えて、やっぱりこの、知らないお爺さんと知らない猫たちと知らない町を散歩している状況はどうかしているなと思った。どこかで適当な公園でも見つけて、ベンチか滑り台の中で仮眠しよう。猫たちとはそれまでの付き合いだ。
ざっざっと、二つ分の足音だけが、田んぼ道にひたすら響いた。
「少し、自分のことを話してもいいですか」
歩きながら、ナカザトさんが言った。
「はい」と僕は、深く考えもせずに答える。
期待……と言っては言いすぎだし失礼な話ではあるのだけれど、何かささやかなドラマ性のようなものを感じた。この謎めいた猫使いのお爺さんが、今から自分のことを話すという。実は昔大企業に勤めていたとか、奥さんとの悲しい別れを経験したとか、そういう話が出てくるんじゃないか。一瞬だけ、そう思ってしまったのだけれど。
「この間、はじめてゾンビ映画というものを見まして」
「……はぁ」
淡々と飛び出したのは、よく分からない話題だった。
「私はそういうのに疎くて……レンタルショップに行ったんです。ほとんど全部に『オブザデッド』がついていて、直感にまかせて、一本を借りました」
「……はぁ」
「しかしゾンビは最後の五分くらい出てきただけで、しじゅう淡々とした映画で……何だか本当に、よく分からなかったんです」
「パッケージ詐欺ってやつですね。予算が足りなったのかも」
「映画は玉石混交ですね」
それきりまた、会話が途絶えた。
僕たちはやっぱり、ただ何もない道を歩いている。ゾンビ映画でハズレを引いた、それ以上の「自分のこと」はもう、ナカザトさんから出てきそうにない。ふと、僕も「自分のこと」を話した方がいいのだろうかという気になった。だけど、話すべきことは特に見つからなかった。上京してきたばかりで都会に慣れていないこと。実家の両親は、田舎町の普通のサラリーマンで、妹が一人いること。大学では心理学を専攻していて、毎日ピザ屋でバイトをする予定だからサークルに入るような余裕がないこと。大学の同級生がみんな、すごくお金を持っているように見えて、なんだか見ているだけで微妙に気分がふさぐこと。
……それらがゾンビ映画の話のお返しになるかといえば、なんとなく違う気がした。結局は口をつぐんで、ただ歩いた。
振り返れば、何もない夜空に、ゆめが丘の駅舎がぼんやりと浮かんでいる。相変わらず、侵略者の乗り物のように大きくて迫力があった。ずいぶん駅から離れてしまったけど、ナカザトさんは、一体何時までこの猫の散歩を続ける気なんだろう。
「……あれ?」
足元が少し寂しくなっていることに、そこで気づいた。猫の数がさっきよりも減っている気がする。
「猫、減りました?」
「はい。気が向いたものから勝手に帰っていくんです」
「気ままですね」
猫たちは一体いつのまに、どこに消えていたんだろう。ほとんどは野良と言っていたけど、最終的にはみんな寝床に帰って、ナカザトさんは一人になるんだろうか。いや、自宅が猫の毛だらけということは、最低一匹は飼い猫のはずだ。黒猫、白猫、三毛猫、どの猫もそれなりに元気そうに見えるけど、どれが野良でどれが家猫なのかは、まったく区別がつかない。聞くのも無粋な気がして、こうなったらついていって確かめてみようかという気になった。
「寒くはないですか」
「いえ、あったかいです」
「疲れたら言ってください」
「はい」
ぽつぽつとそんな会話をして、僕たちはまた、ひたすら歩いた。足は全く疲れなくて、僕は意外と体力があるのかもしれないと思った。片道一車線の道路に、車の影はまったくない。何度だって痛感するけど、ここは本当に何もない街だ。何もないけど猫が十匹(また減った)いる。僕とナカザトさんは、何を話すでもなく、歩いている。さっきまでの郷愁みたいなものは、とっくに僕の胸から消えていた。何もない何もないと言いつつも、この街は大都会横浜の一部で、僕の育った本当に何もない街とは違うし、僕は明日からまた大都会横浜であくせくしながら暮らすのだ。
小柄なハチ割れ猫が僕の方をふりかえって「なぉん」と鳴いた。ナカザトさんは別に目を細めていとおしむでもなく、背筋をのばして一定の速さで歩いている。
この散歩はいつまで続くのか分からない。最後の五分でゾンビが出てくるのかといえば、別にそんなこともないだろう。ただ、ちょっとずつ猫が減るだけだ。
十本のしっぽが、頼りない街灯の灯りにゆらゆらしていた。細く長く伸びた僕の影も、頼りなかった。ナカザトさんが、小さな咳払いをする。