男は辺りを見回しながら言った。「三ツ境駅のほうに出たいんです。道がわからなくて」
「つまらない男だね」狐女は吐き捨てるように言った。「そりゃあ線路を歩いていけば三ツ境に出るだろうよ。二ツ橋から三ツ境なんて、目と鼻の先さ。でもそれだけで帰れるかね?あんたがここに来たのには理由がある。だからたとえここから線路を歩いても、三ツ境の駅にはたどり着かないよ。あんたが思っている三ツ境の駅にはね。」
それはなんとなく理解できることだった。何十年も前に廃駅になった駅の線路を伝っても、現代の三ツ境駅に出られるとは思えない。
「どうすればいいですか」男はすがるように狐女に聞いた。「今日は浮かれすぎました。反省しています。すぐそこの…二ツ橋から三ツ境の駅にでる途中に大きな産院があってですね、妻も子もまだそこに入院してて、二人が家に帰ってきたらちゃんと父親をしないといけないんです。だから今夜はちょっと羽を伸ばしたかった。家に帰りたいんです。ただそれだけなんです」
男は正直に思いをぶちまけた。そう、少し自由な、そして幸せな気分を味わって帰りたかったのだ。
「へえ、そうかい」狐女はさして興味もなさそうに答えた。そして、占いに使う水晶を撫でまわしながら狐女は男を見た。
「そうさねぇ…実は、あんたにちょっとお願いがあるんだよ。頼まれてくれないか。聞いてくれれば、あんたが帰れる手伝いをしてやろう。なんたって私は、狐の生まれ変わりなんだからね」
狐女の声色が変わった。そこには男をからかう意図はなかった。
ますますおかしなことになってしまった。男はもう悶絶したい思いだった。悪い夢であってほしかった。しかし、夢であったとしても、とにかくこのおかしな状況から脱しなければ。男は必死だった。
「何でもします。家に返して下さるなら。」
「そうかい…ありがたいね」安っぽい椅子に座っていた狐女は音もなく立ち上がった。 「あの人を、見送ってやってほしいんだ」
狐女の指がホームに佇む、軍服を着た男を指した。
「見送る?あの人を?僕がですか?」
意外な頼まれごとだった。何かもっととんでもないことを頼まれるのだと思って、身構えていた男は力が抜けた。しかしなぜ見知らぬ男の見送りなどしなくてはならないのだろう?
「簡単なことじゃないんだよ」狐女は男の浅はかさを嘆くように言った。「あの人はね、ずっと人を待ってるんだ。私は諦めろと言ってるの。でも、どうしても諦められないって言って、列車に乗らずじまいなんだ。何とか今夜のうちに列車に乗せてやりたいんだよ。」
「でも、あなたでも説得できないのにどうして僕なんですか?あなたは狐の生まれ変わりなんでしょう?」
しまった、と男は思った。素朴な疑問と思って口にしたが、嫌味っただろうか。いま狐女の機嫌を損ねるわけにはいかない。ミッションを遂行して、男は何としても帰らなくてはならないのだ。
「イヤなことを言うね。そういうところ、よく似てるよ。あんたの婆さんに」
「えっ、祖母のこと、ご存じなんですか?」
「うるさいね、いちいち細かいことに突っかかってないで、さっさと行っといで」
狐女はそういうとドンと男を押し出した。
ホームはひっそりと静まり返っていた。静寂と闇の中で、列車は所在なく、ただそこにあって、ともすればもう動き出すことがないのではないかと思えた。
ホームに佇んでいるのは、軍服を着た若い男だった。薄らぼんやりとした明かりに照らされて、大きな体躯と、精悍な表情が見て取れた。ホームのはずれに一人駅員が旗を持って立っている。ホームにいるのはその二人と男だけだった。
若い軍服の男は押し黙っていた。どうにも話しかけにくい、張り詰めた空気を纏っている。停車した列車に乗るわけでもなく、ただそこに佇んでいた。
「あの、恐れ入ります…」
できるだけ相手の気分を害さないように男は声をかけた。無言のまま男がこちらを見た。男を見て、若い軍人ははっとした表情を見せた。しまった。警戒されたかもしれない。
「あなたは…ひょっとして岸本の方ですか?」岸本というのは、祖母の旧姓だ。
「ええ、そう…そんなところです」よかった。警戒されずに済んだ。男は胸をなでおろした。
「きく…嬢様によく似ておいでだ…」軍人は驚いたようだった。この軍人も祖母のことを知っているのだろう。分限者の娘だ。祖母は大層よく知られた存在だったのだろう。
「自分は福田といいます」軍服の男はそう名乗り、男に敬礼をした。
「自分はこれから出征するところであります」硬質な声は淀みがなく、しかし生きている人間とは思えないほど抑揚に欠けていた。思えば駅そのものに色彩が乏しく生気がない。
「そうでしたか…」これから出征しようという若者にどんな言葉をかけていいのか、男には思いつかなかった。
「では、この列車で出発なさるのですか?」
「はい…」福田は目を伏せた。「もうとうに発たなくてはならなかったのです。しかし、心残りがあって、どうしても発ちかねておりました」
男は尤もだと思った。生きて帰って来れるかどうかわからない戦地に赴くのだ。ましてやこの若さだ。心残りはたくさんあるに違いない。福田の思いは想像に難くなかった。
そのまま押し黙る福田に、男は焦りを押し殺して、できるだけ優しく尋ねた。
「待ち人が来ない辛さはわかりますよ。ましてや事情が事情です。私に何かお手伝いできることはありませんか?というか…福田さんは誰をお待ちになっているのです?」
「はい…」俯いた福田が、そう言うと意を決したように男に向きなおって、言った。
「私は、嬢様を…岸本キクさんをここで待っております」
おぼろげだった像がはっきりと形を現した。福田は、男の祖母を待っていたのだ。
言われてみれば思い当たる節があった。子供のころ、絶対に秘密という触れ込み付きで、祖母には結婚前に大恋愛の過去があったという話を叔母がしてくれたことがあった。
「私たちのことを、何かお聞きになっていませんか」
福田は気まずそうに言葉を継いだ。
「ええ、なんとなく…少しだけ、そのような話を」
「そうでしたか…」福田はぽつりぽつりと語り始めた。「私たちは結婚したいと思っていましたが、許されませんでした。無理もないです。きくは大地主の娘、私はその下で働く小作人の子です。岸本の大旦那様はそれはお怒りになられて」
「なるほど」
「もう二年近く会っていないのです。せめて一度だけでも会いたくて、ずっと待ち続けているのです。出征することを知らせたくて、顔見知りの丁稚に頼み込んだのですが、果たしてきくにきちんと伝わったのかどうか」
福田は深いため息をついた。
「失礼を承知でお願いしたいのですが、何とかきくに会う方法はありませんか」
福田の思いは痛いほど伝わった。しかし、ここに祖母を連れてくるわけにもいかない。そもそも、この状況で若かったころの祖母をどう探せと言うのだろう?
「残念ですが私はきくさんのことをどうこうすることはできないのです」
「そうですか…」福田はうつむいたまま、また黙り込んでしまった。万事休すだ。福田を列車に乗せることは難しそうだ。
「これが今生の別れになってしまうかもしれない。だからせめて、言いたかったのです。『愛している、どうか長生きしてくれ』と」
男は胸のふさがる思いがした。ただ家に帰りたいとあがいている自分を少し恥じた。
突然ベルがけたたましい音を立てて鳴り始めた。福田ははっと顔を上げた。
「これが最終の列車なんです。もう乗らなくてはいけません」
もどかしかった。真実を伝えて、福田が納得するとは思えない。男は何も言えなかった。
「…いいんです。不躾にむりなことを頼んでしまいました。これが私たちの運命なのでしょう。最後にきくと縁続きのあなたと話ができてよかった。もしもきくに会うことがあったら?」
「会います」福田の言葉をさえぎって、意を決して男は言った。「必ず会います。そしてあなたの言葉、きちんと伝えます。時間はかかってしまうけれど」
「時間?なぜ時間が必要なのですか?すぐにきくに会うことはできないのですか?いったいあなたは、誰なのです?」
男は意を決して言った。「信じてもらえないかもしれませんが、私はきくの孫です。きくは、健在です。九十を過ぎました。でも、元気です。あなたの望み通り長生きしています。だから、家に帰ったら、すぐに伝えます。九十を過ぎたきくに、必ず」
福田はあっけにとられていた。そして、次第に福田の目からぽろぽろと涙が零れた。
「そうですか…面差しが、とてもきくに似ていると思っていました。こんな不思議なことが起きるなんて…。きくは、長生きをしたのですね。そして今も元気なのですね」
「はい。曾孫も生まれました。私の子です」
福田は男の手を取った。「そうですか。ありがとう。本当にありがとう。孫のあなたに伝えられてよかった。私は、安心して旅立てます。元気でいてくれと伝えてください。いつまでも君のことを思っていると」
「わかりました。必ず、必ず伝えます」
「まもなく発車します。お乗りの方はご乗車ください」
遠くから抑揚のない駅員の声がする。福田は、名残惜しそうに男の手を握ったまま、列車に乗り込んだ。福田には、確かにこの男はきくの孫なのだという確信が芽生えていた。きくの面差しをたたえた男の手を通じて、福田は確かにきくの存在を感じ取っていた。
駅員が笛を鳴らす。出発の時間だ。ゆっくりとドアが閉まる。福田はようやく握っていた手を解いた。
ドア越しに福田が敬礼をした。列車が気怠い音を立ててゆっくりと動き出す。男は動き出した列車を追いかけた。ホームはあっという間に途切れ、男はそこで止まらざるを得なかった。あとはひたすら手を振るしかなかった。列車はゆっくりと男から離れ、遠ざかっていった。
「あんたが怖がるといけないと思って黙っていたけどね」
どのくらいそうしていたのだろう。呆然と立ち尽くしていた男に、狐女が不意に後ろから声をかけた。「この駅はね、幽霊駅なんだ。福田も、あの駅員も、列車も、そしてこの駅そのものも、もう生きてはいない。ここは、死者の駅なんだよ」
男は黙っていた。驚きもしなかった。なんとなくそういうことなのだろうと感じていた。
「悪かったね。あんたに見送ってもらわないといけなかったんだ。あんたでなければ嬢様に伝えることができないだろう?奴の言葉をさ」
「全部お見通しだったんですね」
「どうだろうね」狐女らしからぬ言葉だった。「あたしはね、嬢様にちょっとした借りがあるんだよ。借りというか、かわいそうなことをした。これは、私の嬢様への罪滅ぼしなんだ。長い間、ずっと気になっていたから」
「あなたも幽霊なんですか」
「何度も言ってるだろう?狐の生まれ変わりなんだよ私は。生き死になんてとっくに超えちまってるよ」
そして狐女は男の肩をポンとたたいた。
「約束通りあんたを元居た場所に帰してやろう。あんたは迷わなくていい道を勝手に迷っている。いいかい?帰り道はね、あんたが選ばなかった細いほうの道だよ?迷った時は、思いもかけないほうが正しかったりするんだ」
「覚えておきます」
「さてと、どうしようかね。まじないを唱えてもらいたいんだが」
「どんなまじないですか」
「なんだってかまわないんだよ」狐女は面倒くさそうに言った。随分いい加減なまじないだ。
「じゃあ、目を瞑って、相鉄の駅を端から言ってっておくれ」
「あなたの知らない駅もあると思いますが、いいんですか?」
「なんだっていいって言ってるだろう?ただ二ツ橋は入れておくれよ。あんたが二ツ橋って言ったところで帰してやるから」
なんだか面倒くさいことになった。
「えー…横浜、平沼橋、西横浜、天王町、星川、和田町、上星川、西谷、鶴ヶ峰、二俣川、希望ヶ丘、みつ…」
「はーいっ!」
狐女がいきなり叫んだ。はっとして目を開けると、そこは元居た袋小路の行き止まりだった。
「…三ツ境…二ツ橋」
狐女が途中で面倒になったらしい。駅名が二ツ橋に至る前に男は戻って来た。
風景は一変し、目の前には線路との境界である柵が往来を拒んでいた。駅舎のあった右側を見やると、線路脇にちょっとした空き地がある。雑草がうっそうと茂り、荒涼とした風が吹き渡っている。あそこが二ツ橋の駅だったのだろう。
振り返ると、さっきと同じように道が二つに分かれている。酔いはすっかり冷め果てていた。恐怖もなく、黙りこくった家々にも、しかし人々が眠りについている気配が確かに感じられた。狐女に言われた通り細い道をしばらく行くと、そこは中原街道だった。祖母にこのことをどう報告しよう?さぞかし驚くだろう。喜んでくれるだろうか、それとも涙するだろうか。ぼんやり車の往来を眺めていると、程なくしてタクシーがやってきた。疲れ果てた男はタクシーに向かって手を挙げた。
「どうしてあんな嘘をついたのよ!」
二ツ橋の駅前はちょっとした騒動になっていた。大地主の令嬢が、息も絶え絶えで狐女に詰め寄っていたからだ。
女は当時から「狐女」と呼ばれていた。素性を知る者は誰もいなかった。いつの間にか駅前にやって来ては、いかがわしい占いで人々を惑わせていた。人々は眉に唾をつけて狐女のことを見ていたが、困ったことに大概のことを言い当てて見せた。あれは本当に狐の生まれ変わりなのかもしれない。人々は次第に恐れをなしてそう噂するようになっていった。その狐女の占いが外れた。しかも相手は大地主の令嬢だ。事は重大だった。
きくと福田の仲は、地元の人々も大いに知るところであった。駆け落ちまでしたものの、父親が手配した追っ手を躱し切れずにあっという間に見つかって、家に帰された。福田は強制的に東京で職をあてがわれ、悲恋はあっけなく終わりを告げた。
福田は出征の挨拶をするために帰郷を許された。福田は何としてもきくに一目会いたかった。顔見知りの丁稚に何とか取り次ぐよう頼んだが、一介の丁稚にどうこうできることではなかった。
二人の悲恋に胸を痛めていた、幼いころからきくの世話をしていた下女が、せめて最後に姿だけでもと手引きをし、車を手配した。すでに二人の話は地元の噂になっていたので、福田が出発する時間に合わせて、駅の前を車で通るのが精一杯だった。運転手はわざと駅前で車をゆっくり走らせ、さりげなく束の間車を止めた。ホームには福田と、出征を見送る人影があった。それが、きくが福田を見た最後だった。福田は、きくが密かに見送りをしていたことも知らないまま旅立った。
その日の夜、悲しみに暮れたきくは狐女のもとを訪れた。きくは福田が無事帰ってこれるかどうかを狐女に占わせたのだ。藁にもすがる思いだった。結ばれることはなくても、せめて無事に生きて帰ってきてほしい。狐女ならきっと見えるに違いない。そして、福田を生きて帰らせてくれるかもしれない。
「嬢様、心配には及びません。そのお方はそれはそれは強い武運を持っておいでです。命の危機はありますわ。でも、私がしっかりご祈祷いたします。その方が元気にこの駅に戻ってこられるのが見えますよ。大丈夫」
狐女はきくに優しかった。きくは胸をなでおろした。恐ろしいほどよく当たるという狐女がああ言ったのだ。しかもあんなにやさしく、親身になって。きくは毎日福田の無事を祈った。彼が元気に帰ってきてくれたら、もしかして、今度こそ父も私たちを許してくれるかもしれない。
福田の戦死が伝えられたのは、その半年後だった。きくは知らせに呆然とし、そして泣くことができなかった。代わりにきくを猛烈な怒りが襲った。狐女は言った。きっと無事に帰ってくる、大丈夫だと。あの狐女に視えなかったわけがない。あの女は嘘をついた。分かっていてああ言ったのだ。身の程知らずで向こう見ずな恋愛に現を抜かす私たちを馬鹿にして、子供をあやすみたいに私を安心させたのだ。きくは、周りが止めるのも聞かず、着の身着のまま駅に走った。切れる呼吸も、狂ったように脈打つ心臓もお構いなしだった。死んだっていい。でもせめてあの女に言いたいことを言ってから死にたい。
「あなたに視えなかったわけがない。だってあなたは『狐の生まれ変わり』なんでしょう?笹野の子が死産なのも、宮沢が病気なのも言い当てた。悪いことほどよく言い当てる。あの人が死ぬことだってわかってたのよ。嘘をついたんでしょう?あんな優しいことを言って、私を陰で嘲笑っていたんだわ」
嬢様として知られたきくの、半狂乱になった姿を、人々は憐れみ、遠巻きから窺っていた。狐女は俯いたまま、黙り込んでいた。
狐女には福田の死が視えていた。しかし、うら若いきくに真実を伝えることがどうしてもできなかった。それは、狐女の思いやりだった。あの時真実を伝えたら、きくが自分を保てなくなるのが分かっていた。そして、嘘をつけばこうして自分が糾弾されることも。
狐女はおもむろに跪き、きくに手をついて頭を下げた。
「嬢様、申し訳ございません」
ようやく岸本の家の下人達が追いついた。
「わたくしは確かに嘘をついておりました。
福田の生死を偽ったのではございません。私がついていた嘘は、私が狐の生まれ変わりだということ、未来が見えるということでございます」
人々がざわつき始める。
「わたくしは何の職もなく、芸もなく、生きる手立てを持ちません。人をだまし、誑かして身銭を得るしかなかったのです。わたくしに人の生き死にが視えるわけがありません。そんな力はないのです。死産や病気はあてずっぽうです。口から出た出鱈目がたまたま当たったに過ぎません」
「では福田のことも出まかせだったの?」
「お許しくださいませ。人々を誑かせた罰は受けさせていただきます。今日この日をもって、二度とこの街には現れません。嬢様の目の前にも、もう二度と」狐女は一層頭を下げた。
そこできくの意識が途切れた。周りを取り囲んでいた若い男衆がきくを倒れこむ前に抱きかかえ、そのまま車で連れ帰った。
残された狐女はいつまでも土下座をやめなかった。車が去ったあと、人々は狐女を責めた。金を返せと詰め寄る者や、石を投げつける者もいた。いつしか雨が激しく降り始めて、人々は方々に散っていった。
そして実際、狐女はその日以降一切二ツ橋駅に姿を見せなくなった。それどころか誰に尋ねても、狐女のその後は誰にもわからず、行方は杳として知れなかった。
戦時中、二ツ橋駅は営業を休止し、昭和三十五年に廃駅となっている。休止の理由について詳細は伝わっていない。