「はじめての冒険」あざまあんり

「お母さん、本当に一緒に行ってくれないの?」
 ホームに入ってくる紺色の電車を見つめながら、菜々子は言った。
 かつての私も、そんな風に電車を見つめていたのだろうか。
「お稲荷さんを作り終わるのがもう少しかかるの。菜々子だけでも先に行っててちょうだい」
「……お母さんと一緒にあとから行く」
「それだと菜々子の好きな鳴子踊り、見れなくなっちゃうわよ」
菜々子は少し黙ると
「それはいやだなあ」
と言った。
「さがみ野駅でお父さんとおばあちゃんが待っているから大丈夫よ。ほら、もう扉が閉まっちゃうから、早く乗り込んで」
 菜々子はしぶしぶといった様子で足を踏み出した。電車に乗り込むと扉の前で不安そうに足元を見ている。
「菜々子」
娘は顔を上げる。
「お母さんは、菜々子を信じているわよ。大丈夫、あなたならできるわ」
「うん。がんばってみる」
菜々子は右手で小さく手を振った。
 電車は横浜駅から発車し、桜が満開のさがみ野駅に向かうのだ。

 三十年前、娘と同じ八歳の頃、弟と二人だけで電車に乗ったことを今でも覚えている。私たちはさがみ野駅から横浜駅へ向かう、奈々子とは反対のルートで相鉄線に乗り込んだのだ。

 父が勤めている会社からは横浜の花火大会がよく見えるので、毎年夏になると母と一緒に父の仕事が終わる時間に横浜へ向かった。そこで父の同僚の家族と一緒に花火を眺めるのが、私の大好きな夏のイベントだった。
 その年は、なぜか私と弟だけが横浜に向かうことになった。
 私はどうしても母と一緒に行きたかった。子どもだけで電車に乗ったことはなく、不安でとても心細かった。
「三十分で横浜に着いちゃうわよ。ずっと乗っていればいいんだから。ほら、そんな不安そうな顔をしないで」
 母から相鉄線の停車駅が書いてある紙をもらい、父が横浜駅のホームで待っているからと言われた。
「でも……」
「お母さんは、桜子を信じているわよ。大丈夫、あなたならできるわ」
 その言葉に背中を押され、弟と二人で横浜に向かうことを決めたのだった。

 私と弟は必死になって、電車が止まる度に母からもらった紙を見返していた。
 すると、順番では横浜駅であるはずの駅がなんだかいつもと違うように見えた。何度か行ったことのある横浜駅は、夜の暗い風景の中から現れる、明るく輝く別世界のような駅だと記憶に残っていた。しかし、今停まっている駅はホームから夜の景色が見え、どうしても横浜駅ではないように思えた。
「横浜駅はここじゃないよ」
「でも、お母さんの紙には、ここだって書いてあるよ」
 弟がそう言うのも無理はない。紙に書いてある駅名を数えてみると横浜駅はさがみ野駅から六番目の駅だった。ずっと数えていたけれど、今停車している駅は六番目だ。
「でも、私はここじゃないと思う。ねえ、もう少し乗っていようよ」
「ぼくは降りる」
弟はそう言ってホームに降りた。
「ほら、ここに花火大会のポスターも貼ってあるよ。横浜駅はここだよ」
 確かにポスターが貼ってある。私が間違っているのかもしれないと心が揺れる。もうすぐ扉も閉まってしまう。
「でも、待って」
「扉が閉まります」
 この言葉を聞いたとき、とっさにホームに降りてしまった。その瞬間、とんでもないことをしてしまったと思った。
 ここが横浜駅じゃなかったらどうしよう。

 二人で階段を上がり、父の姿を探した。
「お父さん、いないね」
弟はつぶやく。
「やっぱり、ここじゃなかったんだよ」
「だってお母さんの紙には六番目って書いてある。ほら」
 二人で何度も見ている紙には、母の字で「さがみおおつか、やまと、みつきょう、きぼうがおか、ふたまたがわ、よこはま」と書いてある。
「じゃあ、なんでお父さんがいないの」
「そんなのわかんないよ」
弟はとうとうしゃがみ込んで泣き出した。
 弟に信じてもらえなかった。ここがどこだか分からない。お父さんに会えない。
 私だって泣きたかった。
 
 ホームでは、足早に人が通りすぎていく。隅っこに座ったままの弟と私だけが取り残されているようだと思った。
「あら、どうしたの?」
 突然、おばさんが足を止め、声をかけてきた。しかし、たくさんの荷物を持ち、急いでいるようでもあった。
「……大丈夫です」
「そう? 姉弟ケンカかな。困ったことがあれば駅員さんに言うのよ」
そう言うとおばさんはこちらを気にしながらも早歩きで離れていった。

 ここがどこだか教えてって言えばよかった。
 そう思ってももう遅い。なんだか周りの人が敵に見えた。弟は泣いてばかりで何にもしてくれない。弟がここで降りたから、こんなことになったのに。
 恨めしい気持ちで弟を見ると「お母さん」と言いながら泣いている。
 弟のせいばかりではないことは分かっていた。
 はっきり「横浜駅はここじゃない」と自信を持って言えばよかったんだ。そうしたら今頃、横浜駅に着いていたかもしれないのに。
 どのくらいそうしていたのだろう。花火大会はもう始まってしまったのだろうか。

「お母さんは、桜子を信じているわよ。大丈夫、あなたならできるわ」

 母の言葉を思い出した。
 お母さんは私ならできると言ってくれた。私がやらなきゃ。

 私は立ち上がった。
「葉介、一緒に行こう。大丈夫、お姉ちゃんが横浜駅に連れていってあげるから」
 弟の涙をハンカチでふき、しっかりと手を握った。弟も強く握り返してきた。
 私たちは改札に向かって歩き出した。
 改札の事務所の前には何人か並んでいて、私たちはそこの最後尾に並んだ。
「迷子? 先に行っていいよ」
 セーラー服のお姉さんが列を譲ってくれた。
「ありがとう」
と弟が泣きながら言った。

 私たちの順番がきた。勇気を振り絞って駅員さんに声をかける。
「ここはどこの駅ですか?」
「二俣川駅だよ」
「お母さんの紙では、ここが横浜駅だって書いてあるんです」
「見せてごらん。……瀬谷が抜けているね。さがみ野駅から七番目の駅が横浜駅だよ」
 お母さんの紙が間違っていたのだ。
「そうか、間違えて降りちゃったんだね。横浜駅まで行くのかな?」
「そうです。どうしたら横浜駅まで行けますか?」
「この階段を降りて、左側の電車に乗ると一駅で横浜駅に着くよ。もうすぐ電車が来るから案内しよう」
 私たちは駅員さんのあとをついていった。
「この電車にずっと乗っていれば、横浜駅に着くからね。駅で待ってくれている人はいるかな?」
「お父さんが待っています」
「横浜駅にいるお父さんに伝えておくね。きっと心配して待っているよ」

 今度は電車に乗り込んでも不安は消えていた。
 きちんと駅員さんに聞くことができた。
 胸の中は達成感でいっぱいだった。いつの間にか弟も泣き止んでいた。

 電車は停まり、見慣れた横浜駅の光景が広がっていた。
「お姉ちゃん、ごめんね。お姉ちゃんが合ってたのに」
「もういいよ。一緒に横浜駅に着けたんだから」

「おーい! 桜子、葉介!」
 ホームに降りると父がスーツ姿で駆け寄ってきた。顔には汗がにじんでいる。
「お父さん!」
 私と弟は父に抱き着いた。我慢していた涙がぼろぼろ流れた。
「ずっと探していたんだからな。もう、本当に見つかってよかった」
 父は背をかがめてぎゅっと抱き留めてくれた。
「お姉ちゃんがね、がんばってくれたの」
弟がそう言った。
「そうか、桜子、よくがんばったな。葉介を一緒に連れてきてくれてありがとう」

 初めての子どもだけでの電車は、私にとって大冒険だった。守ってくれる親がいない怖さ、一人でもできるという感動、色んな人の暖かさ。
 私はここで、少しずつ大人になっていったのだ。
 今では横浜駅を別世界みたいに思うことはないけれど、あの頃の思いを忘れずにいられるのは、それだけ記憶に残る体験をしたからだと思う。
 今、菜々子もそんな冒険をしているのだろうか。

 見えなくなった紺色の電車を思いながら、夫からの連絡を待つ。
 三十年前のとき、母は私と弟が横浜駅に無事にたどり着いたことを確認したら、横浜に向かう予定だったらしい。私の大冒険は、なんだかんだ大人に見守られていたのだ。
 今度は私の番。菜々子が着いたことを確認したらさがみ野駅に向かう。夫は見つからないように菜々子と同じ電車に乗り、母はさがみ野駅で待っている。

 菜々子には相鉄線の七駅を書いたメモを渡してある。万が一、どこかの駅で降りてしまったら、三十年前にはなかった、さがみ野駅を通り越す特急には乗らないようにと追加で書いておいた。何度も見返したから、母のようなうっかりミスはないだろう。

 菜々子の大冒険のあと、さがみ野の桜まつりで鳴子踊りを見て、桜公園でシートを広げ、出店の甘ったるい良い匂いをかぎ、満開の桜並木を眺めながらお稲荷さんを食べるのだ。
 そして、今日の菜々子の冒険と、かつての私の冒険について家族みんなで話をするのだろう。

「ねえ、お母さん、聞いて聞いて!」

 そうして、ここで思い出を積み重ねていくのだ。今も、これからも。

著者

あざまあんり