「少女よ、君に免じて」香織

 ばん! と鳴った。
 それから、予想以上の痛みが右腕と腰に拡散した。愕いて振り向いたが、おじさんはさっさと改札を抜けて向こう側にいた。あの鞄のなかには、いったい何が入っているのか? どう考えても鉄板が入っているとしか思えない。
 それにしても動けない。まさかこんなに痛いなんて思わなかった。片膝をついてしまったが、力が入らず立ち上がれない。
 視界の端を制服の少女が過ぎていった。黒いランドセルのショルダーを両手で握って、わたしを振り返っている。歩みを止めず左右に何度も振り返っている。
 ああライバル校の子だわ。っていうか、わたしもあのくらいの頃は、だいじょうぶ? ってすぐに大人の人が助けてくれたんだけどな――そんなことを思っているうちに、彼女はこちらに顔を向けたまま、階段の方へと曲がっていった。
 とりあえず立とう。膝に力を入れる。タイツが破れていないかを確認して、顔にかかった髪をよけたそのときに、横を走り抜ける人がいた。
 まずい、と思ったが、右腕の芯が痛んで急げない。待って! と思っているうちに、頭上に列車が滑り込んでくるのを感じた。
 プシュウという遠い音がして、もう諦めた。いっきに力が、脱けてしまった。
 のろのろと歩くわたしの横を、真顔の大群が過ぎてゆく。脇見などせずまっすぐに歩いてゆく。その風圧のようなものがわたしの髪を揺らしてゆく。この人たちはもう目的地に着いたのだろう。わたしはといえばスタート地点で乗り遅れている。ちいさくため息を吐き、階段に足を置いた。
 ホームに出て肩をすくめる。急いで出してきたストールに顎を埋めると、すこし箪笥くさい。中秋の名月とやらを越えたらいっきに肌寒くなった。しかも無人駅に来たような侘しさだ。通勤の人々はまるでひとかたまりの生き物みたいだった。さっきまでの何百人もの足音はいったいなんだったのか。わたしのパンプスのヒールの音が、ゆがんで響く。ホームじゃない。プラットホオム、なんて言い直したくなる。
 横浜からたったの三駅とはいえ、天王町はのどかだ。しかしこれでも保土ケ谷だ。東海道最初の宿場町だ。最近は時代劇に凝っているせいで、昔はなんとも思っていたことがいまさらながら誇らしい。
 よっこらせ、とため息混じりに呟きそうになったのをすんでのところで押し込めて、ベンチに腰かける。右腕にじんわりと残る痛みをさすって、ふいに思い出す。
 高校生ぐらいのときに友だちと話したことがある。横浜と東京の差ってさ、ぶつかって、すみませんを言うか言わないかの違いじゃん。――あ、それわかるかも。
 だけどいつからか横浜でも当たり前のようにぶつかり、それどころかおしのけられるようになった。データもエビデンスもないが、絶対だと思っている。もしかするとそれも、わたしが子どもだったからだろうか? いや違う。ちいさい子どもだったら、すみませんじゃなくて、ごめんねと言われるはずだ。たしかに昔は、すみませんと言い合っていた記憶がある。だってそれを、横浜のいいところだと話していたくらいだ。みんな相手を見る前に反射的に謝っていたのだろうか? 何にせよ、東京のひとには申し訳ない話だが。
 アナウンスが響く。やがて急行がすべりこんできて、耳いっぱいにシャリシャリという轟音が広がった。
 パンプスのつま先の傷を見ていると、その先にホームの端が見えた。ずいぶん電車との隙間も狭くなったのだと気づく。そういえば小学生のころに、横浜駅で電車とホームの隙間に落ちたことがあるのだ。
 救ってくれたのは、黒いランドセルと、大人たちだった。今はもう見ない空豆色をしたかわいい電車に乗ろうとして、すぽんと見事に落ちたわたしは、ランドセルと両腕を電車の入り口にひっかけて呆然としていた。慌ててまわりの大人たちがひっぱりあげてくれて、そこで大泣きした。心臓がバクバク鳴って、あとからあとから恐怖がこみ上げた。
 しかし思えばずいぶんおっちょこちょいな小学生だった。ホームで転んだこともあるし、エレベーターに長靴のつま先を詰まらせたこともある。まったく当時の大人たちには本当によく引っ張りあげてもらったものだ。とはいえ、ついさっきも転んだばかりだ。おっちょこちょいはいまもさして変わらない。でもちょっと悲しいのは、大人にぶつかられて、転んだということだ。しかもあの大人は、振り返りもせず――。
 分厚い風が来た。
 急行列車のおしりを見届けると、次元が変わったようにのどかな天王町になる。眩しい水色が視界に戻り、ホームの向こうに見える木々の先端を、一羽の鳩が横切ってゆく。
 なんだかな、とちいさく呟き、目頭を拭った人差し指を見て、親指で揉み消す。指を開いてもまだ薄く黒が滲んでいて、先生に叱られることもなく当たり前のように化粧をする歳になったのだと、改めて思う。大人になってマナーになるなら小学校あたりから授業に入れてくれればいいのに。あまつさえ校則違反にするとは、理不尽だ。
 ふいに足許が暗くなった。通り過ぎると思った影が、思いのほか動かない。
 顔を上げると、おさげ髪の制服の少女と目が合った。顎を引いて、遠慮がちにわたしを見上げている。
「あのう」
 ちいさなまるい唇から、高い声がこぼれた。
「あのう、だいじょうぶですか」
「え?」
 さっきの子だ。まさかわたしのせいで彼女も乗り遅れたのか。ランドセルのショルダーを握りしめる左手が白い。なかなか勇気を振り絞っているのがわかった。しかしぽかんとしてしまったわたしに、女の子はたどたどしく右手を差しだした。
「これ、どうぞ」
 絆創膏だ。
 ほとんど反射的にそれを受け取ると、女の子は両手でショルダーを握って、走り去っていった。
「え、ありがとう!」
 慌てて礼を言うと、彼女はいちど足を止め、ぺこりと頭を下げてまた走りだした。がらがらと音を立てる黒いランドセルを揺らして、しかし加減をしながらホームの奥まで走り去ってゆく。
 わたしは改めて、膝とタイツをチェックした。おじさんに鞄を当てられた右腕もチェックした。そのうち痣にはなりそうだが、しかしいまはどこも、怪我はしていない。
 ただ、彼女はわたしを気の毒に思ったのだ。転んだわたしに、怪我をしただろうと思って、絆創膏をくれたのだ。
 絆創膏は猫のキャラクター柄で、皺ひとつない。じつはわたしも持っているのだが、いろいろなものとまとめてポーチに入れていて、たしかよれよれになっていた。
 さすが――。
 ライバル校の名を頭のなかで呟いて、緩んでしまった頬を誤魔化すために俯いた。わたしも小学校お受験組だ。あの子の学校のことは、みんなどこかで意識をしていた。まさか助けられるとは。
 助けられる。
 そうか、わたしは助けられたんだな。勝手に出てきたことばに、また頬が緩んでしまいそうで、ストールを巻きなおすふりでさりげなく口許を隠す。
 わたしは立ち上がって少女の方を見た。ちいさな身体で、あのランドセルを背負っての電車通学は大変だ。わたしもあの子と同じ、黒いランドセルだった。なぜ赤じゃないのかとふてくされた記憶もある。というよりも、小学生にとって一本乗り遅れることは結構な大事件じゃないのか。いまさら焦ってしまったが、正直どうすることもできない。
 ふと少女がこちらを見た。ほとんど顔はぼやけて見えないが、わたしは手を振った。あまりやるとこのご時世だ、変な人に思われるかもしれない。控えめにして、手を降ろす。
 すると少女が、手をあげた。ちょこっとだけ振って、まるで間違えたかのように慌てて降ろし、お辞儀をした。
 少女が前を向いた。わたしは大きく、ため息を漏らした。
 彼女に免じてあのおじさんを許して――は、やらないが、しかしわたしは、今朝という時間を許す。ふん。悪かねえじゃねえか――。時代劇かぶれの独り言を、胸の裡で呟いてみる。
 アナウンスが流れた。各駅停車が来る。
 わたしは鞄を開けて、少女からもらった絆創膏を分厚い手帳に挟んだ。そしてポーチを開けてみた。リップとアイライナーの間に、よれよれの絆創膏が見えた。
 小学校でお化粧の授業か。前言撤回だ。あの顔に化粧なんかしたくない。できればいつまでも、あの透明なまぶたの縁の輝きと、お肌のままで。

  了

著者

香織